
私たちの人生における究極的な、かつ目の前にある現実に目を向けさせる朗読でもって今期の待降節を始めましょう。待降節第1主日は、歴史の終わりに焦点を当てています。キリスト教徒にとっては、それはホラー映画の題材ではなく、栄光のうちに来られるキリストを待ち望むこと、すなわち被造物すべてが成就に至る時を待つことなのです。最初のキリスト教徒の人々は、その日が目前に迫っていると信じ、そのために備えていました。これが、パウロがローマの信徒たちに「わたしたちの救いは近づいている」と語った言葉が背景にあります。
今日の福音の中でイエスは言われます。「目を覚ましていなさい。人の子は思いがけない時にくるからである。」イエスの死と復活の後、数十年間は昼も夜もその日のために備えるという生き方をしていましたが、やがて最も信仰深い人々でさえ、いつまでも待ち続けることはできませんでした。世界の終わりのしるしをあらゆる行き止まりの中に見いだそうとする生き方は、たいていの場合、平和で実りある人生にはつながらないのです。
2025年11月30日
第2世代、第3世代のキリスト教徒たちは、自分たちの持つ期待を根本的に見直さなければなりませんでした。それは、もしも自分たちの考えが正しかったのであれば、すでに終わりは来ていたはずだということに気づいたからです。イエスが終りについて語られたことを注意深く確認してみますと、イエスが驚くほど詳細を控えておられたことに気がつきます。イエスがはっきりと断言された唯一のことは、「あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らない」ということでした。
この朗読の難問は、私にエクアドルの友人たちのことを思い起こさせます。この人たち多くは障害をもつ人々で、その上南アメリカで最も活発な火山の一つであるトゥングラワ火山の麓に暮らしています。トゥングラワ山は、およそ半分の時間は煙を上げたり、地鳴りを響かせたりしており、麓の町々は常に警戒態勢にあります。そして警戒レベルは、黄色からオレンジ、赤へと、常に予測不能に上下しているのです。この友人たちその状況と共に生きる術を身につけました。水、薬、懐中電灯、マッチなどを入れたリュックサックを常に準備しています。安全地帯への避難経路も全員が把握しています。備えを整えつつ、日常の仕事を続けています。女性たちの中には、福音書に出てくる人々のように実際にトウモロコシをひいたり、また他の人たちはコンピューターで仕事をしたり、タクシーを運転したり、理学療法をしたり、農業をしたり、学校で教えたり、教会で説教したりしています。この人たちは、すべてを一瞬で変えてしまうかもしれない出来事に注意を払いながらも、人生を生き続けています。このような生き方は、神経質になることなく常に気を付けることを教えてくれたのです。その感情のバランスの取れた生き方は、命の尊さと危うさを知っているからこそ、一日一日、一時間一時間に対する深い感謝の心を芽生えさせているのです。
待降節第1主日の朗読は、私たちに「終わり」に目を向けるよう招いています。それは、私たちの弱さを強調するためではなく、私たちがどこへ向かっているのかを思い出すためです。これこそが、イザヤが人々に伝えようとしていることです。彼は、あるべき姿としての人生を描いているのです。イザヤが語りかけた相手は、繁栄を失ったことで信仰も失ってしまった人々でした。ヘンデルのいかなる音楽にも匹敵するほど荘厳な言葉で、イザヤは神の都の幻を描きました。そこではすべての国々が集まり、礼拝し、共に平和のうちに生きることを学ぶのです。そして、人々が「不可能な夢」を口ずさみながら安穏と腰を下ろしてしまわないようにと、イザヤは声を上げます──「ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう!」と。
パウロは、ローマの信徒たちへの呼びかけの中で、イザヤの言葉を反響させています。キリストの栄光に満ちた再臨が今にも起こると信じていた時代に、パウロは彼らが日々の生活とこれから起こりうる出来事との間で、心のバランスを保てるよう助けようとしたのです。これこそがキリスト教徒の生涯に必要な本質的な緊張感なのです。すなわち、神の国の到来を見据えながら、今この瞬間のすべてのことを味わいながら生きることです。
待降節は、私たちが感謝の祭典の中でたびたび唱える「キリストは再び〔栄光のうちに〕来られる」という言葉を思い起こさせます。それは、被造界が常に真の成就へと向かって動いていることを意味しています。すなわち、イザヤが描いた平和の幻、武器を農具に取り換えるという夢は、単に可能であるというだけでなく、神がその実現のための具体的な計画を私たちに示しておられるということなのです。パウロは私たちに、その現実に目を覚ますよう呼びかけています。イエスは、あらゆる瞬間に潜む可能性に注意を向けるよう教えてくださっています。
確かなことは、神の未来は起こりつつあり、必ず到来する、そしてそれは思いがけない形で訪れるということです。火山の麓で暮らす人々が、「備える」ということについて私たちに多くのことを教えてくれています。この人たちは、明日か、あるいは500年後かはわからないけれど、トゥングラワ火山が生きているがゆえに、いつかすべてを変えてしまう日が来ることを。私たちは、神の国についても同じように信じています。待降節の招きとは、未来が私たちの期待を新たに方向づけ、栄光に満ちた約束を思い起こさせることによって、今という時を根本から変えていくことなのです。
振り返りのための質問
- 今週の聖書朗読またはリフレクションの中で、あなたが心を動かされたことは何ですか?
- あなたにとって難しい、あるいは挑戦的だと感じた点は何でしたか?
- 今週の呼びかけに応えるために、個人的に、または共に、今週そして長期的な将来に向けて、どのような具体的な行動を取ることができると思いますか?