待降節が始まります。この時期になると、キリスト教信者が人口の1%の日本でも、街は華やかにライトアップされて、ウキウキした気分になります。そして、この時期にあるエピソードが思い出されます。
私は1996年にカトリックの洗礼を受けたのですが、同じくらいの時期からウエブサイト作りを始めて、次の年に、その小教区のウエブサイトを作りました。その頃はまだ、ウエブサイトを持っている小教区も少なくて、そのせいか、その年のクリスマスにはウエブサイトを見て、たくさんの人がクリスマス・ミサを訪訪ねてくださいました。サイト作り仲間たちと、「たくさんの人とクリスマスを祝えてよかったねー」と喜んでいたのですが、私はある教会委員の女性に呼ばれて怒られてしまいました。「多くの人に来られては困る」と言うのです。「椅子も足りないし、駐車場も足りないし、、、、」、そして最後に、彼女はこう言いました。「そんなに、誰でも来てください、来てくださいって言って、いろんな人が来てしまったら私たちの信仰はどうやって守るの?」
うーーーーん。彼女は「いろいろな人が来ると、自分たちの信仰が守れなくなるから、そんなに来てほしくない」ということが言いたかったのでしょう。
洗礼を受けて間もない私の頭には、大きなクエッションマークが出てしまいました。「イエス・キリストはすべての人に福音を告げ知らせなさい」と言っているのに、、、いろんな人を排除して守る信仰ってなんなんだろう? そもそも、信仰は何かを排除しなければ守れないものなんだろうか?
「何かを守るために」、それは美しい理由です。「家族を守るために」「平和を守るために」「国を守るために」そういう美しい理由のために、私たちは多くの人やものを排除しているのかもしれません。私はフリッツ・アイヘンバーグの炊き出しの列に並ぶキリストの版画を思い出し、愕然としました。私たちが「排除して当然」と思う“もの”や人々の中に、もしかしたら、イエス・キリストがいるのかもしれない、、、、。
イエス・キリストは誰もが受け入れやすい赤ちゃんの姿でこの世界に来てくださいました。けれども、成人し、自分たちの意図に合わなくなると、人々は排除し十字架につけてしまいました。昔から人間の心の奥底には、そんな思いが、深く隠されているのかもしれません。
「受け入れがたい」「これは排除されて当然」と思った時、その中にキリストがいるかもしれなません。それは「もの」や人だけでなく、自分の心や思いも、含まれていると思います。「これは自分の一番イヤな部分、悪い部分だから排除されて当然、受け入れなくていい」と思っているところでイエスは待っていてくれるのかもしれません。
洗礼を受けてから30年近く経った今、信仰は排除するのではなく受け入れることによって育つのだ、と感じています。
自分の受け入れがたい、排除されて当然、と思っている、もの・人・事柄・思い、は何でしょう。この待降節、「そこでイエス・キリストが待っているかもしれない」と意識してみてはいかがでしょうか。
山田ちづる姉妹、CSJ
山田ちづる姉妹は2018年に修道会に入会しました。東京農工大学で化学を学んだ後、千鶴は録音技師、化学研究者、カトリック通信講座の講師、そしてカトリック百科事典の編集者として働きました。日本の津市で他の姉妹たちと共に生活しながら、千鶴は現在、知的障害のある人々の生活支援員として働き、またカトリック津教会で教区活動にも携わっています。