「この世でほとんど望まずに、望んだとしてもわずかしか望まないようにしなさい。より優れた方法は、望みも計画も持たずに生きることです。あなたの愛なる神の慈しみに満ちた摂理に、自らをゆだね、とても穏やかに自らを放棄なさい。」
Maxim 17
私は以前半年間、志願者として観想修道会で過ごしたことがある。そこでは、四旬節は食事や聖務、外部との連絡、私語など、あらゆることが普段と違っていた。静寂に過ごすという目的で、四旬節中は掃除機を使うことも禁止されていた。
今、CSJカロンデレットのコミュニティの中で、私はどう四旬節を過ごし、主の過ぎ越しの準備をしているだろうか。普段通りにミニストリーをし、必要があればあちこち出かけ、あまり生活上の変化がないように見えるかもしれない。しかし私自身の心のうちでは、確実に過ぎ越しの神秘であるイエスのご受難とご復活に向かって、イエスと共に歩いているという実感が強くなっている。
今年の四旬節は、思いもよらなかったことを頼まれたり、自分の体力や能力では到底無理だと思われることをしたりと、自分の計画外のことが次々と起きているが、それらについて「できません」と言わず、「Yes」と答えるように心がけている。そうすることで、自分の人生は自分のものではない、ということがはっきりと分かってくる。そんな時、いつもMaxim17を思い起こす。
「この世でほとんど望まずに、望んだとしてもわずかしか望まないようにしなさい。より優れた方法は、望みも計画も持たずに生きることです。あなたの愛なる神の慈しみに満ちた摂理に、自らをゆだね、とても穏やかに自らを放棄なさい。」(Sr.マーシャ・アレン訳)
いきなり「自分を放棄しなさい」と言われたら、そんなことできるはずないと思うに違いないが、こうして日々起こること、頼まれることに心を込めて対応していることが、自分の望みを生きるのでなく神の摂理に身を委ねることにつながっているのだと思う。Federation NovitiateでSr.マーシャのクラスを受けた時、私はこのMaxim17について「Just be.」とノートに書いている。単純なことであるはずの「Just be.」が、なぜ「自分を放棄しなさい」ということにつながるのだろうか。
色々なタスクをこなしているうちに、私は「Just be.」であることを忘れてしまう。より良い結果を出したいと真面目にすればするほど、多分「Just be.」ではなくなっているのだろう。私は神様の望みによって神様に造られたのだからそのままの私でいい、ということを忘れてしまって、自分に対する自分自身の評価基準を勝手に作り出しているのだ。それはもはや摂理に身を委ねているのでなく、神様が握っているハンドルを取り上げ、自分でアクセルを踏み込んで暴走している姿なのかもしれない。
このようなことに気づけるのも、私が一人で生きているのではなくコミュニティに中にいるからこそ、である。四旬節中だけでなく、生涯この「Just be.」を生き続け、イエスと共に過ぎ越していけるよう願っている。
Sr.マリー・ド・ルルド黒木 CSJ
Sr.マリー・ド・ルルド黒木(ロサンゼルス管区)出生地:東京、2019年に入会し、一年間三重県津市、二年間ロサンゼルス、10ヵ月フィラデルフィアのコミュニティで過ごし、現在ロサンゼルス在住。初誓願宣立後、ロサンゼルス・リトル東京近くにある聖フランシスコ・ザビエル教会に派遣される。CSJのコミュニティでの生活と、ここでのミニストリーを日々喜びをもって過ごしている。